雨野とも。は、別荘みたいだ。
そんな言葉が突然浮かんだのは、
5月のゴールデンウィーク。
軽井沢を抜け、万座へ向かう途中、
白樺の木々が見えてきた時だった。
頭の中に、
まるでニュースレターが配信されるように、
「雨野とも。は、別荘みたいだ。」
という言葉が届いた。
受信した私は、
「なに、自分に酔ってるの?」
と、頭の中で自分に突っ込む。
だけど、
不思議なくらい、しっくりきていた。
深く呼吸のできる名前
30代の頃、
私は終活について考えていた。
「まだ早すぎるよ」
そう言われたけれど、
その頃の私にとって、
生と死は遠く離れたものではなかった。
誰もがいつか迎えるものなら、
考えることに早いも遅いもない。
そんなふうに感じていた。
それから、およそ10年。
昨年12月、
「雨野とも。」という名前が見つかった。
母でもない。
誰かの妻でもない。
仕事の中で呼ばれる私でもない。
ただの「わたし」にもどって、
深く呼吸のできる名前。
この名前が見つかるまでのことは、
『名前が見つかった日から。』に書いています。
名前が見つかってから、
半年になろうとしていた5月。
この名前で言葉を綴りながら、
生きていきたい。
そんなことを考えていた。
白樺の道で届いた言葉
娘と7歳離れて息子が生まれてから、
旅行といえば近場で一泊ほど。
けれど今年の5月、
夫が久しぶりに2泊3日の旅行を企画した。
温泉とビュッフェがあればご機嫌な娘に合わせ、
行き先は万座へ。
二日目は軽井沢まで足を延ばした。
食事をして、
旧軽井沢を歩き、
宿へ戻る途中。
普段あまり車を運転しない夫は、
集中するため車内を無音にしている。
ところが、その日に限って、
突然ラジオを流した。
長い道を走るうち、
少しずつ夕暮れの空が広がっていく。
ユーミンの「春よ、来い」。
「パプリカ」。
猿岩石の「白い雲のように」。
坂本九の「上を向いて歩こう」。
偶然流れてくる曲の言葉と、
窓の外を過ぎていく景色が重なり、
なぜか涙が止まらなくなった。
そして、ふと。
雨野とも。って、別荘みたいだ。
たまに帰って、
深く呼吸をする名前。
そう感じて、
すぐにメモをした。
40年の山の家
翌日。
再び同じ道を走っている途中、
母から聞いていた話を思い出した。
叔母が長年過ごしてきた山の家を手放し、
地元へ戻ろうとしていること。
運転中はほとんど話しかけない夫に、
その話をすると、
「え、ほしい。」
思いがけない返事だった。
母に連絡をすると、
偶然にも翌日、
叔母の知人が山の家を見に来る予定だという。
そこから話が動き、
40年の歴史が詰まった山の家を、
私たち家族が受け継ぐことになった。
「雨野とも。は、別荘みたいだ。」
そう感じた旅の途中で、
本当に山の家を受け継ぐ話が動き始めた。
7月。
叔母から、
山菜や植物の生えている場所、
周辺のことを教えてもらう。
そして8月。
叔母の終活のひとつとして、
暮らしに関わる細かなことまで、
少しずつ受け継いだ。
ただ、自然がある
娘は愛犬と一緒に、
木と木の間にハンモックをかけ、
「私の居場所」
と言いながら揺れている。
息子は、
アリや小さな虫、葉っぱを見つけるたび、
私のところへ走ってきて、
「虫さんいたよー」
と教えてくれる。
私は山の空気を深く吸う。
原生林の中。
鹿やリス、
ほかの動物たちがいつ姿を現すかわからない、
少しの緊張もある。
足元にある小さな葉から、
空に近いほど高く伸びた木まで、
ゆっくり目を向ける。
ただ、自然がある。
人間と同じように、
木々も生き、成長している。
そこにあることは、
決して当たり前ではない。
木々を見つめながら、
これから時々訪れるこの場所での
拡がりの可能性を感じた。
見えないものをすくう
私は昔から、
目に見えるものそのものよりも、
その奥にあるものに惹かれてきた。
光と影のあいだ。
表と裏。
人と人のあいだ。
現実と非現実の境界。
記憶や気配、におい。
言葉になる、その前の感覚。
18歳の頃、
幼い頃から見つめてきたものについて
考える場所があることを知った。
大学では美学を専攻し、
『目には見えないものの中にある美』について考えた。
美学や哲学は、
すぐに暮らしの役に立つものではないと
思われるかもしれない。
けれど私は、
ものを見る視点を持つことは、生きていくうえで大切なことだと思っている。
見方が少し変わるだけで、
昨日と同じ景色の中にも、
それまで見えなかったものが現れることがある。
きれいに見えている表側だけではなく、
その裏側に積み重ねられた時間。
笑顔の奥にある疲れ。
言葉と本当の気持ちとのあいだ。
誰かがそこにいた気配。
目に見えるものだけでは、
人も、場所も、
そのすべてを知ることはできない。
だから私は、
「見えないものをすくう。」
という言葉を、
自分の中心に置いている。
わたしに「もどれる」
そして改めて思う。
雨野とも。は、別荘みたいだ。
自分に帰れる。
わたしに「もどれる」名前。
過去を辿ると、
これまでの自分に出会うことがある。
昔のアルバムをひらく。
懐かしい曲を聴く。
子どもの頃に好きだったものを手に取る。
昔よく歩いた道を歩く。
好きだった場所へ行く。
懐かしい味や、においに出会う。
忘れていた景色を辿ると、
そこにいた自分にも出会う。
楽しかったことも。
夢中になっていたことも。
うまくいかなかったことも。
遠回りした時間も。
今の自分から振り返ると、
「あれも、ここにつながっていたんだ」
と思えることがある。
私にとって過去を辿ることは、
ただ懐かしむことではない。
これまでの自分を、今の自分から見つけ直すこと。
新しい自分になるのではなく、
もともと自分の中にあったものへ、もどること。
私はそこに惹かれている。
役割という鎧を脱ぐ
母。
妻。
仕事をする人。
「〇〇ちゃんのママ」。
どれも私で、
どれかが偽物というわけではない。
けれど、
生きていると役割が増えていく。
誰かに必要とされ、
何かをしなければならない時間も増えていく。
だから、ときどき役割という鎧を脱いで、
ただの「わたし」にもどる。
好きな喫茶店。
温泉。
海。
好きなものに触れること。
ノートに言葉を書き出すこと。
昔好きだったものを手に取ること。
そして私にとっては、
「雨野とも。」という名前も、
一人の「わたし」にもどれるもののひとつになった。
過去を辿って、
これまでの自分を見つける。
好きなものを辿って、
いまの自分にもどる。
それが、
私の「もどれる。」だ。
「飴の友」も、同じところへ
これまでnoteで続けてきた、
小さな連載『飴の友』で拾い集めてきたものも、
振り返ると、同じところにつながっていた。
小さな瓶に入った、におい玉。
コミック『りぼん』を夢中でめくっていた、
少女だった頃の感覚。
暗がりの喫茶店で飲む、
一杯のコーヒー。
一人で海へ行き、
数時間、波を眺めていた時間。
友人からもらった手紙。
思い出の写真。
そこには、
これまで生きてきた私の時間が残っていた。
誰かと笑ったこと。
夢中になったこと。
好きだったもの。
大切にしてくれた人。
私はノスタルジーを集めたいわけではない。
昔の方がよかったと、
過去へ帰りたいわけでもない。
においや、音、味、手触り。
そんな感覚を手がかりに、
そこにいた自分と再び出会う。
そして、
いまを生きている自分へ、もどってくる。
そのために、
私は拾い集めているのだと思う。
心の中の、小さな別荘
「もどれる」場所。
「もどれる」コト。
「もどれる」モノ。
それはきっと、
心の中に持っている、
小さな別荘のようなものなのかもしれない。
疲れた時。
迷った時。
自分が少し遠くなった時。
そこへ帰って、
ひとつ深く呼吸をする。
そしてまた、
目の前の暮らしへもどっていく。
本当の別荘がなくてもいい。
海でもいい。
喫茶店でもいい。
一枚の写真でも。
昔好きだった小さなおもちゃでも。
雨の音でも。
誰かにもらった一言でもいい。
私自身、
大きな何かに救われたというより、
壁に映る光や、
ホットミルクの温度や、
誰かの言葉や、
目の前にある小さなものに、
何度も日常へ連れ戻されてきた。
だから、
私がここに一つだけ残すなら、
「もどれる。」
という言葉なのだと思う。
自分に「もどれる」場所や、
モノや、コトを、
日常の中にいくつか持っておく。
心がざわついた時、
そこへ戻って深く呼吸する。
自分で自分の感覚を、
少しずつ取り戻していく。
目を閉じた時、
何が浮かぶでしょうか。
そこに浮かんだものが、
すでに一つの
「もどれる。」
なのかもしれません。
雨野とも。








自分を第三者の視点から見つめてみる瞬間を持つとまた別のものが見える気がしますね。
雨野ともさん
自然にかえるって大事な事ですね。